私がスキーインストラクターだったころ
本気にインストラクター
全く純粋に遊びに志賀高原にすべりに行ったのです。
と、栗田コーチが志賀のスクールのこていれに転勤してきているではないですか。
お前なにやってんだ、少しは手伝っていけと言うわけで、
忙しい時期のパートタイマーという事で結局、そのシーズン一番たくさんレッスンをして帰りました。
で、その身分のまま、97〜98シーズンまで働くことになるわけです。
その間、志賀プリンスホテルスキースクールの立ち上げメンバーとして参加したり、
それがこけたあと、苗場に飛ばされたり。
藤島スキースクールがSIAからSAJへ移行したり。
そのときに、なぜか準指導員の認定をもらったり。
波乱に富んだコーチ生活を送りました。
実際問題、指導に携わったのは、9割見当スキー修学旅行のレッスンでした。
女子の班か、特別班を良く受け持ちました。
髪の毛が黄色で、眉毛がないような男の子たちも随分スキーを楽しんでくれていたようです。
藤島スキースクールの上島コーチを覚えている人いますか?
私は、まだスキーをしています。
機会があれば、レッスンもします。
もちろんこれを本職にしては生活が成り立たないことは良くわかっていますから、
本業の合間を縫ってですが...
人に、物を教えると言うことは良いものです。
また、スキーというスポーツも年をとっても直楽しいレクリェーションです。
97〜98シーズンに藤島スキースクールを辞めた後もなかなかスクールとは縁が切れず。
正月休は必ずスキースールのある硯川ホテルに泊まってスキーをしていました。
栗田コーチや藤島幸造先生と一緒に、カナダへスキーをしに行ったことも有りました。
栗田コーチは、いつも節目節目に私とスキーとのつながりを強くしてくれます。
彼が亡くなった年も、私が会社辞めてフリープログラマーになるために東京に出てきた年なのです。
そのままだと、きっとスキーと縁遠くなっていたと思うのですが...
亡くなる前に栗田コーチと約束をし、シーズンがきたら一緒に山に上がって
パソコン操作だけでいいから、手伝って欲しいと頼まれしまったのです。
で、結局栗田コーチはその約束の93〜94シーズンを待たずに他界されてしまいます。
とりあえず、私もシーズン立ち上げ時には、志賀高原へ手伝いには出かけたのですが、
栗田コーチなきあと、スキースクールとのパイプがなくなっていた私は、条件も折り合わないことも有り、
後に藤島スキースクールの責任者となる吉岡コーチにパソコンの指導だけして、山を降りることになりました。
そこへ、栗田コーチの古い友人である、綱川コーチからよりによってスクールの事務所にいる私へ電話が...
日光にある彼のスキースクールが人手不足なので、ぜひ手伝って欲しい、ということなのです。
で結局、93〜94から96〜97の4シーズンも日光でスキースクールを切り盛りするはめになります。
その次の年は、三人目子供も生まれたりしたので、さすがに、長期のスキーには行かなかったのですが。
翌年は、2000年問題でスクールもパソコンを入れ替えると言うことのために、
その作業をするため正月を志賀高原ですごすことになりました。
以来、毎年スキースクールがらみで、スキー場を訪れることになってしまいました。
縁とは、不思議なものですね。
きっとここのスキースクールとは、切っても切れない縁があるのでしょう。
みんな、私よりも熱心に、仕事していたように見えたのですが、
今となっては誰もスキースクールとは接点を持っていない様子です...
スキーコーチと言うのやはり一種のあだ花なのでしょうか...
それを含めて、私はこれからも、スキー業界ウォッチャーとして、
スキーとかかわっていこうと思っています。
よりよきスキー人生を目指して。